見るものに何かをうったえてくる可愛らしい少女の絵──その少女たちをどこかで目にしたことがあるかもしれません。
宮若市出身、田川郡川崎町在住。筑豊地区で画家として活躍されている河村陽介さん。
現在31歳、画家として東京ではなく筑豊で活動されているのは、地元への想いが強いからなのだそうです。
今回は、画家の河村陽介さんにお話をお伺いしました。
少女の絵に出会うまで
河村さんが絵の道に進むことになったのは、赤星月人氏(1926─2007)の影響でした。赤星氏が直方で開いていた画塾で学んだことが、河村さんが絵の勉強をはじめるきっかけなったそうです。
最初に絵をはじめたきっかけは、僕がまだ小さいころに、兄が絵を習っていた画塾で先生にほめられたことでした。小さなきっかけでしたが、それから絵を好きで、楽しく描いていました。その後、大和青藍高校在学中に赤星月人先生の画塾で学び、先生の多大な影響があって絵の道に進むことを決め、九州産業大学芸術学部美術学科に進学することになりました。
大学で本格的に絵を勉強しはじめた河村さんは、在学中に挫折を味わうことになりました。そんな河村さんを救ってくれたのが、「少女の絵」でした。
大学でデッサンばかり描いていた時期は、絵の面白さや絵を描く楽しみが薄れていってしまっていました。そのような中で、現代アートなどに触れ、自由に表現していいんだと分かったときに気持ちがすごく楽になりました。『少女の絵』は、昔から好きで描いていたラクガキを絵にしてみようかな、と思いつきではじめたのですが、今ではそれが人と僕を繋げてくれています。
当時、河村さんがボランティア活動で子ども達と一緒に絵を描いたときに、「少女の絵」をとおして子どもたちの絵への関心が高まったそうです。河村さんは大学の卒業制作でも「少女の絵」を描き、その後、この絵がきっかけで様々な人と繋がることになります。
大学時代は、色々な葛藤がありながら絵を描いていましたが、続けてきたことで僕が大切にできる絵と出会うことができました。続けてきてよかったと思っています。
最初に絵をはじめたきっかけは、僕がまだ小さいころに、兄が絵を習っていた画塾で先生にほめられたことでした。小さなきっかけでしたが、それから絵を好きで、楽しく描いていました。その後、大和青藍高校在学中に赤星月人先生の画塾で学び、先生の多大な影響があって絵の道に進むことを決め、九州産業大学芸術学部美術学科に進学することになりました。
大学で本格的に絵を勉強しはじめた河村さんは、在学中に挫折を味わうことになりました。そんな河村さんを救ってくれたのが、「少女の絵」でした。
大学でデッサンばかり描いていた時期は、絵の面白さや絵を描く楽しみが薄れていってしまっていました。そのような中で、現代アートなどに触れ、自由に表現していいんだと分かったときに気持ちがすごく楽になりました。『少女の絵』は、昔から好きで描いていたラクガキを絵にしてみようかな、と思いつきではじめたのですが、今ではそれが人と僕を繋げてくれています。
当時、河村さんがボランティア活動で子ども達と一緒に絵を描いたときに、「少女の絵」をとおして子どもたちの絵への関心が高まったそうです。河村さんは大学の卒業制作でも「少女の絵」を描き、その後、この絵がきっかけで様々な人と繋がることになります。
大学時代は、色々な葛藤がありながら絵を描いていましたが、続けてきたことで僕が大切にできる絵と出会うことができました。続けてきてよかったと思っています。
筑豊での活動について
大学卒業後は、一年間、嘉麻市の織田廣喜美術館で勤務したのち独立。その後、声がかかって画家として横浜でも活動し、そこで筑豊で活動することの重要性に気づいたそうです。
横浜では展覧会で筑豊を紹介するブースで活動をしたのですが、横浜に行ったことで、地元で制作活動をすることの大切さに気がつきはじめました。横浜には、地元からではなくて様々な場所から人が集まってきていたのですが、そこでは、それぞれが地元を大切にするという雰囲気はあまりなく、僕は少し違和感を感じました。
──僕は筑豊をテーマにして全ての作品を制作しているわけではありませんが、筑豊の外に出てみたことで、生まれ育ったところで、その土地の空気を感じながら作品を制作することが重要だと感じました。
それからは拠点を筑豊にうつし、生まれ育った土地や人への「恩返し」を念頭におきながら、活動をしているとのこと。筑豊に戻って活動をする中で、不思議と「少女の絵」がさまざまな出会いを生んでくれたそうです。
今回WINGの読者プレゼントで、直方の「筑前 しまや」さんから河村さんの絵が描かれたカレンダーをいただいていますが、河村さんと「しまや」さんとの出会いも「少女の絵」がきっかけだったそうです。
『しまやのきみちゃんの唐揚げ』を考案した社長のお母さまが、僕の絵に似ていて、お店の看板を依頼されたことがきっかけだったのですが、それから本当に深い繋がりをいただきました。僕の活動で今一番力を入れている『しまやの筑豊物語』という紙芝居も、簡単な仕事ではありませんが、筑豊に恩返しをしたいということで、しまやの社長と力を合わせて作っているところです。
『しまやの筑豊物語』 「しまやチャンネル」で見られます。
横浜では展覧会で筑豊を紹介するブースで活動をしたのですが、横浜に行ったことで、地元で制作活動をすることの大切さに気がつきはじめました。横浜には、地元からではなくて様々な場所から人が集まってきていたのですが、そこでは、それぞれが地元を大切にするという雰囲気はあまりなく、僕は少し違和感を感じました。
──僕は筑豊をテーマにして全ての作品を制作しているわけではありませんが、筑豊の外に出てみたことで、生まれ育ったところで、その土地の空気を感じながら作品を制作することが重要だと感じました。
それからは拠点を筑豊にうつし、生まれ育った土地や人への「恩返し」を念頭におきながら、活動をしているとのこと。筑豊に戻って活動をする中で、不思議と「少女の絵」がさまざまな出会いを生んでくれたそうです。
今回WINGの読者プレゼントで、直方の「筑前 しまや」さんから河村さんの絵が描かれたカレンダーをいただいていますが、河村さんと「しまや」さんとの出会いも「少女の絵」がきっかけだったそうです。
『しまやのきみちゃんの唐揚げ』を考案した社長のお母さまが、僕の絵に似ていて、お店の看板を依頼されたことがきっかけだったのですが、それから本当に深い繋がりをいただきました。僕の活動で今一番力を入れている『しまやの筑豊物語』という紙芝居も、簡単な仕事ではありませんが、筑豊に恩返しをしたいということで、しまやの社長と力を合わせて作っているところです。
『しまやの筑豊物語』 「しまやチャンネル」で見られます。
絵をとおして心と心を繋げる
「僕はしゃべることが苦手だから、絵を描いているのかもしれません」と話す河村さん。少女の絵には絵をとおして「人と対話したい」という河村さんの気持ちが込められています。
特に大学時代、周りを見渡してみると暗い絵が多かったんですね。絵には時代の空気や人の想いが込められると思いますが、僕はこんな苦しい時代だからこそ、未来に希望をもてるようなキラキラした明るい絵を描きたかったんです。
──僕も過激な絵を描いていた時期もありましたが、可愛らしい『少女の絵』によって初めて、子ども達や地域の人たち、たくさんの人とのあたたかい繋がりをもてるようになりました。──筑豊の人はあたたかい。みんな河村陽介という人間と仲良くなってくれるけど、いつも絵がきっかけをくれるんです。僕の絵を見て何かを感じ、絵と対話し、僕と繋がりをもってくれる。だから絵にいつも感謝しています。
僕の人生のターニングポイントには、いつも絵がありました。今、小学校に行って授業をさせてもらうこともあるのですが、子ども達と関わる中で思うことがあります。僕が絵をはじめたきっかけは先生にほめてもらえた、という小さなことでした。おこがましいかもしれませんが、僕と関わったことによって、自分も美術にたずさわりたいとか、美術館に行くのが好きになったとか、そういう子ども達が増えていったら、とても嬉しいことだなと思います。
「『筑豊から世界へ──』世界へはばたく画家になって、もっと広い世界に筑豊のことを知ってもらい、そして自分という人間がいることを残したい。」
最後にそう話してくれた河村さん。これからのご活躍を期待しています。
特に大学時代、周りを見渡してみると暗い絵が多かったんですね。絵には時代の空気や人の想いが込められると思いますが、僕はこんな苦しい時代だからこそ、未来に希望をもてるようなキラキラした明るい絵を描きたかったんです。
──僕も過激な絵を描いていた時期もありましたが、可愛らしい『少女の絵』によって初めて、子ども達や地域の人たち、たくさんの人とのあたたかい繋がりをもてるようになりました。──筑豊の人はあたたかい。みんな河村陽介という人間と仲良くなってくれるけど、いつも絵がきっかけをくれるんです。僕の絵を見て何かを感じ、絵と対話し、僕と繋がりをもってくれる。だから絵にいつも感謝しています。
僕の人生のターニングポイントには、いつも絵がありました。今、小学校に行って授業をさせてもらうこともあるのですが、子ども達と関わる中で思うことがあります。僕が絵をはじめたきっかけは先生にほめてもらえた、という小さなことでした。おこがましいかもしれませんが、僕と関わったことによって、自分も美術にたずさわりたいとか、美術館に行くのが好きになったとか、そういう子ども達が増えていったら、とても嬉しいことだなと思います。
「『筑豊から世界へ──』世界へはばたく画家になって、もっと広い世界に筑豊のことを知ってもらい、そして自分という人間がいることを残したい。」
最後にそう話してくれた河村さん。これからのご活躍を期待しています。
Profile
河村陽介
1988年3月10日生まれ。
福岡県宮田町(現宮若市)出身。
大和青藍高校卒、赤星月人氏の画塾で絵を学び、2006年九州産業大学芸術学部美術学科に入学。
2010年4月より嘉麻市の織田廣喜美術館にて勤務後、独立。
現在筑豊地区で画家として活動中。
@kawamura.yousuke
河村陽介
1988年3月10日生まれ。
福岡県宮田町(現宮若市)出身。
大和青藍高校卒、赤星月人氏の画塾で絵を学び、2006年九州産業大学芸術学部美術学科に入学。
2010年4月より嘉麻市の織田廣喜美術館にて勤務後、独立。
現在筑豊地区で画家として活動中。
@kawamura.yousuke
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