INTERVIEW
彫刻家・母里聖徳さん。
25年の沈黙を越えて、いま、思うこと。(1)
彫刻家・母里聖徳さん。
25年の沈黙を越えて、いま、思うこと。(1)
彫刻家の母里聖徳さんが、ある構想を語りはじめている。
「遠賀川流域でアートプロジェクトをする」と。
母里さんは、鉄の都・北九州市で、
国内外の作家と並んで作品を発表していた人だ。
けれど、そのあと約25年間、ほとんど作品をつくらなかった。
そして最近になって、つくりはじめたと思ったら、こんどは陶器や、この土地の歴史にのめりこんでいる。
どうして、そんなことを考えるようになったのだろう。
北九州~筑豊のアートシーンとともに歩んできた
彫刻家・母里聖徳さんに、
これまでとこれからを伺いました。
「遠賀川流域でアートプロジェクトをする」と。
母里さんは、鉄の都・北九州市で、
国内外の作家と並んで作品を発表していた人だ。
けれど、そのあと約25年間、ほとんど作品をつくらなかった。
そして最近になって、つくりはじめたと思ったら、こんどは陶器や、この土地の歴史にのめりこんでいる。
どうして、そんなことを考えるようになったのだろう。
北九州~筑豊のアートシーンとともに歩んできた
彫刻家・母里聖徳さんに、
これまでとこれからを伺いました。

母里さん。田川市美術館にて
前回はこちらから

──海上先生との出会い
なぜぼくがこんなふうになっていったかというと、1987年に1回目の国際鉄鋼彫刻シンポジウム*を開催したあと、ウナックトウキョウ*の海上雅臣先生*と出会ったことからはじまる。
すごい先生でね。
井上有一*の展覧会を京都の国立近代美術館を皮切りに、県立の美術館とかに巡回展をやっていて、山口県立美術館や福岡県立美術館でも開催した。
その関係で、(海上先生が)千草ホテル(北九州市八幡東区)に来られた。
ぼくの奥さんが千草ホテルのギャラリーにいた関係でいろいろ話をして。
ぼく達のシンポジウムの企画の内容がおもしろいって言って喜んでくれた。
(海上先生は)1960年代に現代美術の野外美術展*をしている人やからね。工藤哲巳*とか。
なぜぼくがこんなふうになっていったかというと、1987年に1回目の国際鉄鋼彫刻シンポジウム*を開催したあと、ウナックトウキョウ*の海上雅臣先生*と出会ったことからはじまる。
すごい先生でね。
井上有一*の展覧会を京都の国立近代美術館を皮切りに、県立の美術館とかに巡回展をやっていて、山口県立美術館や福岡県立美術館でも開催した。
その関係で、(海上先生が)千草ホテル(北九州市八幡東区)に来られた。
ぼくの奥さんが千草ホテルのギャラリーにいた関係でいろいろ話をして。
ぼく達のシンポジウムの企画の内容がおもしろいって言って喜んでくれた。
(海上先生は)1960年代に現代美術の野外美術展*をしている人やからね。工藤哲巳*とか。
国際鉄鋼彫刻シンポジウム…1987年に国内外の鉄の彫刻家たちが腕を競った「国際鉄鋼彫刻シンポジウム-YAHATA’87」が八幡東区東田で開催された。2回目は、北九州市で缶・びんの分別収集が始まった1993年に、リサイクルをテーマとした「『ザ・リサイクル』第2回国際鉄鋼彫刻シンポジウム―北九州93」が開催された。
ウナックトウキョウ…海上雅臣が美術批評の実践活動として1974年に設立。美術愛好家の集い「六月の風会」の運営、美術書の出版、美術ドキュメント映画の制作、併設のウナックサロンでは支持する作家の展覧会などを開催している。
海上雅臣…1931年東京生まれ。同時代の作家を対象として批評活動を行い、同時に展覧会開催や作品集刊行等、紹介・普及にも積極的に取り組んだ。18歳で棟方志功の版画を買ったのを縁に、ヴェニス・ビエンナーレ国際大賞を得るまで7年間、棟方志功の画業を整理し、4冊の本をまとめる。1971年陶芸界の異才八木一夫、トーマス・バイルレ等、伝統と革新の批評テーマを確立。特筆すべきは井上有一に関する一連の仕事で、カタログレゾネ『井上有一全書業』全3巻を編集刊行。2002年、行動的美術評論家の範を示したとして、日本現代芸術振興賞を受賞。
井上有一…1916年東京都生まれ。書道家・上田桑鳩に師事し、サンパウロ・ビエンナーレ(1957、1961)やドクメンタ2(カッセル、1959)に出展。戦後まもなく世界的に評価された数少ない現代の書家のひとり。
現代美術の野外美術展…1969年、工藤哲巳は、海上の提案を受け、房総半島鋸山の断崖絶壁に「脱皮の記念碑」を彫り付けた。詳しくはインタビューを参照:「工藤弘子 オーラル・ヒストリー 第1回」
工藤哲巳…大阪に生まれ、少年期を青森で暮らし、父が早世した後、母の郷里岡山で高校までを過ごす。東京藝術大学在学中から、読売アンデパンダン展に出品し、篠原有司男や荒川修作らとともに「反芸術」世代の代表格となる。1962年に国際青年美術家展での大賞受賞を機に渡仏し、約20年ヨーロッパを活動の場として、文明批評的な視点と科学的な思考とを結びつけた独自の世界を展開した。1987年には母校の東京藝術大学の教授に就任するも、55歳の若さで他界した。
ウナックトウキョウ…海上雅臣が美術批評の実践活動として1974年に設立。美術愛好家の集い「六月の風会」の運営、美術書の出版、美術ドキュメント映画の制作、併設のウナックサロンでは支持する作家の展覧会などを開催している。
海上雅臣…1931年東京生まれ。同時代の作家を対象として批評活動を行い、同時に展覧会開催や作品集刊行等、紹介・普及にも積極的に取り組んだ。18歳で棟方志功の版画を買ったのを縁に、ヴェニス・ビエンナーレ国際大賞を得るまで7年間、棟方志功の画業を整理し、4冊の本をまとめる。1971年陶芸界の異才八木一夫、トーマス・バイルレ等、伝統と革新の批評テーマを確立。特筆すべきは井上有一に関する一連の仕事で、カタログレゾネ『井上有一全書業』全3巻を編集刊行。2002年、行動的美術評論家の範を示したとして、日本現代芸術振興賞を受賞。
井上有一…1916年東京都生まれ。書道家・上田桑鳩に師事し、サンパウロ・ビエンナーレ(1957、1961)やドクメンタ2(カッセル、1959)に出展。戦後まもなく世界的に評価された数少ない現代の書家のひとり。
現代美術の野外美術展…1969年、工藤哲巳は、海上の提案を受け、房総半島鋸山の断崖絶壁に「脱皮の記念碑」を彫り付けた。詳しくはインタビューを参照:「工藤弘子 オーラル・ヒストリー 第1回」
工藤哲巳…大阪に生まれ、少年期を青森で暮らし、父が早世した後、母の郷里岡山で高校までを過ごす。東京藝術大学在学中から、読売アンデパンダン展に出品し、篠原有司男や荒川修作らとともに「反芸術」世代の代表格となる。1962年に国際青年美術家展での大賞受賞を機に渡仏し、約20年ヨーロッパを活動の場として、文明批評的な視点と科学的な思考とを結びつけた独自の世界を展開した。1987年には母校の東京藝術大学の教授に就任するも、55歳の若さで他界した。

海上雅臣監修、生きている井上有一の会編、「井上有一展」
埼玉県立美術館 ほか 1991年
海上先生はもともと歌人だった。
高校生の時に棟方志功*に惹かれて、お金もないのに作品を買ったことが縁で、1955年に、20代前半でサンパウロ・ビエンナーレに棟方志功に出品してもらいグランプリ(版画部門最高賞)をとる。
次の年、ヴェネチア・ビエンナーレでまたグランプリ(国際版画大賞)をとる。
なぜそういうことをしたのかというと、世界に通用する日本人の作家を生み出そうと考えたそうだ。
そこでピンと来たのが木版画の棟方志功だった。
棟方志功は、そのころ民芸運動で、柳宗悦*に認められて、日本では高い評価を受けていた人。
国際的に美術市場に紹介したのが、その海上先生だった。
高校生の時に棟方志功*に惹かれて、お金もないのに作品を買ったことが縁で、1955年に、20代前半でサンパウロ・ビエンナーレに棟方志功に出品してもらいグランプリ(版画部門最高賞)をとる。
次の年、ヴェネチア・ビエンナーレでまたグランプリ(国際版画大賞)をとる。
なぜそういうことをしたのかというと、世界に通用する日本人の作家を生み出そうと考えたそうだ。
そこでピンと来たのが木版画の棟方志功だった。
棟方志功は、そのころ民芸運動で、柳宗悦*に認められて、日本では高い評価を受けていた人。
国際的に美術市場に紹介したのが、その海上先生だった。
棟方志功…青森県生まれ。画家を志し上京。民藝運動の提唱者・柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らに見出され親交を深める。ヴェネチア・ビエンナーレなど国内外の美術展で高い評価を受けるなど我が国を代表する版画家として活躍し、昭和45年には文化勲章を受章した。
柳宗悦…日本民藝館創設者である柳宗悦は、1936年4月の国画会で棟方と出会い、出品されていた《大和し美し》の買い上げを即決。以来作品の指導監修にあたる。半年後、日本民藝館の開館時には新作《華厳譜》が大広間の壁一面を飾った。
柳宗悦…日本民藝館創設者である柳宗悦は、1936年4月の国画会で棟方と出会い、出品されていた《大和し美し》の買い上げを即決。以来作品の指導監修にあたる。半年後、日本民藝館の開館時には新作《華厳譜》が大広間の壁一面を飾った。

1955年9月『民藝』の表紙を飾った棟方志功「雷聞」
そのころ日本の作家といえば、アンフォルメル*の作家や、藤田嗣治*とか。
具体*はまだそこまで話題になっていないしね。
2年連続して大きな国際展でグランプリを受賞することは、日本では初の快挙で世界から注目を集めたが、木版画はタブロー*としては、まだ評価されなかった。
そのあと、日本の作家は他に誰がいるかなと考えたときに、木の次は土で。 海上先生が目に付けたのが、オブジェという新しい言葉をつくって、陶彫を提示しはじめていた八木一夫*。
彼をプロデュースしようとして、カタログ*作ろうとして良いカメラマンを探した。
土門拳*に頼もうとしたら「おれはそんなことしないよ」と。
それで駆け出しの奈良原一高*に頼んで、写真を撮って、作品展をしたら、評価を受けて。
八木一夫ブームが起こる。これでいけるかもと。
具体*はまだそこまで話題になっていないしね。
2年連続して大きな国際展でグランプリを受賞することは、日本では初の快挙で世界から注目を集めたが、木版画はタブロー*としては、まだ評価されなかった。
そのあと、日本の作家は他に誰がいるかなと考えたときに、木の次は土で。 海上先生が目に付けたのが、オブジェという新しい言葉をつくって、陶彫を提示しはじめていた八木一夫*。
彼をプロデュースしようとして、カタログ*作ろうとして良いカメラマンを探した。
土門拳*に頼もうとしたら「おれはそんなことしないよ」と。
それで駆け出しの奈良原一高*に頼んで、写真を撮って、作品展をしたら、評価を受けて。
八木一夫ブームが起こる。これでいけるかもと。
アンフォルメル…戦後、構成主義をはじめとする幾何学的抽象に対して、より表現的な叙情的抽象と呼ばれる抽象動向が登場した。日本においては、1956年に開催された「世界・今日の美術展」(日本橋高島屋、1956年)の開催やミシェル・タピエやジョルジュ・マチューが来日したことをきっかけに、日本の美術界全体に「アンフォルメル旋風」と呼ばれる一大ブームが巻き起こった。
藤田嗣治…1886年東京生まれ。1913年に渡仏。独自の乳白色の下地に、繊細な描線で描いた作風を展開し、エコール・ド・パリの著名なひとりとして国際的な画壇で活躍した。第二次大戦下には帰国し、戦争記録画の第一人者として活躍した。戦後はフランスに戻り、1966年にはノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計から装飾までを完成させた。
具体…1954年に兵庫県芦屋市で結成された「具体美術協会」は、前衛画家・実業家の吉原治良を中心に、彼に作品の批評を受けていた若い作家たちによって構成される。結成メンバーは17名、最終的に約60名が参加した。会名は「精神が自由であることを具体的に提示」するという理念に由来する。60年代には初期の活動がハプニングの先駆として評価され、海外からの評価も高い。
タブロー…絵画を意味するフランス語。ラテン語で「板」を意味する「タブラ(tabula)」に語源を持ち、壁画や天井画との対概念として支持体が建築物から自由で持ち運びが可能であるという意味でキャンバス画や板絵のことを指す。絵画においては、完成した作品を指す言葉でもある。
八木一夫…1918年京都市生まれの陶芸家。1948年に美術陶芸グループ走泥社を結成し、オブジェ焼きという新分野を開いた。1950年パリ・チェルヌスキ博物館での現代日本陶芸展をはじめ、数多くの国際展でグランプリを受賞。1971年第11回とオリンピック冬季大会入賞メダルのデザインを担当した。
土門拳…1909年酒田市生まれ。戦後の日本を代表する写真家。1935年に名取洋之助が主催する日本写真工房の写真技師となる。代表作は「江東のこどもたち」「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」など。
カタログ…海上雅臣編『八木一夫作品集』求龍堂、1969年。
奈良原一高…1931年大牟田市生まれ。1955年には池田満寿夫、靉嘔ら新鋭画家のグループ「実在者」に参加。池田龍雄や河原温といった芸術家や瀧口修造らとも交流を深めると同時に、東松照明、細江英公らとも知り合い、1959年には彼らとともにセルフ・エージェンシー「VIVO」を設立した。世界各地を取材し、写真集や展覧会など、国際的に高い評価を受けた。
藤田嗣治…1886年東京生まれ。1913年に渡仏。独自の乳白色の下地に、繊細な描線で描いた作風を展開し、エコール・ド・パリの著名なひとりとして国際的な画壇で活躍した。第二次大戦下には帰国し、戦争記録画の第一人者として活躍した。戦後はフランスに戻り、1966年にはノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計から装飾までを完成させた。
具体…1954年に兵庫県芦屋市で結成された「具体美術協会」は、前衛画家・実業家の吉原治良を中心に、彼に作品の批評を受けていた若い作家たちによって構成される。結成メンバーは17名、最終的に約60名が参加した。会名は「精神が自由であることを具体的に提示」するという理念に由来する。60年代には初期の活動がハプニングの先駆として評価され、海外からの評価も高い。
タブロー…絵画を意味するフランス語。ラテン語で「板」を意味する「タブラ(tabula)」に語源を持ち、壁画や天井画との対概念として支持体が建築物から自由で持ち運びが可能であるという意味でキャンバス画や板絵のことを指す。絵画においては、完成した作品を指す言葉でもある。
八木一夫…1918年京都市生まれの陶芸家。1948年に美術陶芸グループ走泥社を結成し、オブジェ焼きという新分野を開いた。1950年パリ・チェルヌスキ博物館での現代日本陶芸展をはじめ、数多くの国際展でグランプリを受賞。1971年第11回とオリンピック冬季大会入賞メダルのデザインを担当した。
土門拳…1909年酒田市生まれ。戦後の日本を代表する写真家。1935年に名取洋之助が主催する日本写真工房の写真技師となる。代表作は「江東のこどもたち」「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」など。
カタログ…海上雅臣編『八木一夫作品集』求龍堂、1969年。
奈良原一高…1931年大牟田市生まれ。1955年には池田満寿夫、靉嘔ら新鋭画家のグループ「実在者」に参加。池田龍雄や河原温といった芸術家や瀧口修造らとも交流を深めると同時に、東松照明、細江英公らとも知り合い、1959年には彼らとともにセルフ・エージェンシー「VIVO」を設立した。世界各地を取材し、写真集や展覧会など、国際的に高い評価を受けた。

海上雅臣編、奈良原一高写真『八木一夫作品集』
求龍堂 1969年
戦後の民芸ブームのなか、民芸運動とは別なんだけど、北大路魯山人*、荒川豊蔵*、加藤唐九郎*とか優秀な陶芸家といっしょに織部焼*の再評価的な動きがおこる。
そのブームの延長線上に、「やきもの」の新しい可能性として八木一夫さんが評価されるのだけど、1979年に亡くなってしまう。
次に白羽の矢がたったのが、井上有一。
井上有一は日展をやめて、新しい会(墨人会)をつくって、『週刊朝日』(1956年)が前衛書道ということで井上有一を紹介した。
これが、彼がメディアで「前衛」という言葉で紹介された最初期の事例だった。
そこから井上有一は美術界にいく。
井上有一はニューウェーブの評価を受けたし、話題になったのだけど、位置づけはまだいっていなかった。
井上有一にサンパウロ・ビエンナーレに出展してもらう。
すると、またそれが大賞をとるわけ。
それですごかったのは、そのあとハーバート・リード*が『近代絵画史』に井上有一の書をのせたのね。
日本人の作家としてはじめてのことだった。
その後、日本人アーティストとして世界に認めてもらうため、海上先生が一番にしたのが、国立美術館に井上有一を収蔵してもらうこと。
京都国立近代美術館館長の河北倫明に買ってもらって。
それをベースに全国展開した。
それがちょうど1980年。
そのブームの延長線上に、「やきもの」の新しい可能性として八木一夫さんが評価されるのだけど、1979年に亡くなってしまう。
次に白羽の矢がたったのが、井上有一。
井上有一は日展をやめて、新しい会(墨人会)をつくって、『週刊朝日』(1956年)が前衛書道ということで井上有一を紹介した。
これが、彼がメディアで「前衛」という言葉で紹介された最初期の事例だった。
そこから井上有一は美術界にいく。
井上有一はニューウェーブの評価を受けたし、話題になったのだけど、位置づけはまだいっていなかった。
井上有一にサンパウロ・ビエンナーレに出展してもらう。
すると、またそれが大賞をとるわけ。
それですごかったのは、そのあとハーバート・リード*が『近代絵画史』に井上有一の書をのせたのね。
日本人の作家としてはじめてのことだった。
その後、日本人アーティストとして世界に認めてもらうため、海上先生が一番にしたのが、国立美術館に井上有一を収蔵してもらうこと。
京都国立近代美術館館長の河北倫明に買ってもらって。
それをベースに全国展開した。
それがちょうど1980年。
北大路魯山人…1883年京都市生まれ。陶芸家。1908年、朝鮮に渡り、総督府の書記となつて書道と篆刻の研究に打ちこむ。書と篆刻で生計を図るかたわら、1921年には美食倶楽部をはじめ、自ら厨房長となつて腕をふるった。作陶を始めた動機は、自分の料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。その後、鎌倉市の窯場に定住して作陶に専心、イサム・ノグチとロックフェラーの招きで、1954年に米国と欧州に遊び個展を開き、その名声を国際的なものとした。
荒川豊蔵…1894年岐阜県土岐郡生まれ。志野焼の人間国宝で文化勲章受章者。1927年から魯山人と親交を深める。魯山人とともに美濃の古窯跡を発掘調査し、志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの桃山茶陶が美濃で焼かれたことを発見した。以後、古陶の復元に情然を傾けた。1955年には日本工芸会の結成に参加、加藤唐九郎と共に同会の長老として活躍した。
加藤唐九郎…1897年愛知県東春日井郡生まれ。瀬戸や美濃地方の古窯を発掘調査を行い、志野、織部、黄瀬戸などの桃山古陶に出会い、自らもその復元研究に努めた。1929年には瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任するが、1933年には瀬戸焼が瀬戸より美濃で古く焼かれたことを発見、主張し、反発を買い瀬戸を離れることとなった。その後、安土桃山期の古窯発掘を通じて織部焼が真の日本焼であると考え、その復活に努力する。1951年パリ・チェルヌスキ博物館で開催された日本陶芸展に「織部向付」6点を出品し、これを機縁にピカソと作品を交換。翌年、織部の技法で第1回無形文化財記録保持者に選定された。陶磁研究者としても造詣が深く、『陶磁大辞典』(全6巻、宝雲舎)などを出版した。
織部焼…安土桃山時代に生まれた「織部焼」は、戦国武将で茶の湯を牽引した「古田織部」に由来する。織部焼は、ユニークな造形に斬新な絵柄が特徴。織部焼が作られたのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのわずか30年ほどだが、常識にとらわれない独自の美意識を持つ古田織部の人物像を反映した茶道具、食器は、「織部好み」と言われ人々の心をとらえた。
ハーバート・リード…文学批評家、美術評論家。1943年に『芸術による教育』を出版し、現在でも美術教育を研究する上での基本図書となっている。1965年には来日し、日本においても広く知られた。
荒川豊蔵…1894年岐阜県土岐郡生まれ。志野焼の人間国宝で文化勲章受章者。1927年から魯山人と親交を深める。魯山人とともに美濃の古窯跡を発掘調査し、志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの桃山茶陶が美濃で焼かれたことを発見した。以後、古陶の復元に情然を傾けた。1955年には日本工芸会の結成に参加、加藤唐九郎と共に同会の長老として活躍した。
加藤唐九郎…1897年愛知県東春日井郡生まれ。瀬戸や美濃地方の古窯を発掘調査を行い、志野、織部、黄瀬戸などの桃山古陶に出会い、自らもその復元研究に努めた。1929年には瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任するが、1933年には瀬戸焼が瀬戸より美濃で古く焼かれたことを発見、主張し、反発を買い瀬戸を離れることとなった。その後、安土桃山期の古窯発掘を通じて織部焼が真の日本焼であると考え、その復活に努力する。1951年パリ・チェルヌスキ博物館で開催された日本陶芸展に「織部向付」6点を出品し、これを機縁にピカソと作品を交換。翌年、織部の技法で第1回無形文化財記録保持者に選定された。陶磁研究者としても造詣が深く、『陶磁大辞典』(全6巻、宝雲舎)などを出版した。
織部焼…安土桃山時代に生まれた「織部焼」は、戦国武将で茶の湯を牽引した「古田織部」に由来する。織部焼は、ユニークな造形に斬新な絵柄が特徴。織部焼が作られたのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのわずか30年ほどだが、常識にとらわれない独自の美意識を持つ古田織部の人物像を反映した茶道具、食器は、「織部好み」と言われ人々の心をとらえた。
ハーバート・リード…文学批評家、美術評論家。1943年に『芸術による教育』を出版し、現在でも美術教育を研究する上での基本図書となっている。1965年には来日し、日本においても広く知られた。

ハーバート・リード『近代絵画史』(1959年)
日本では、大岡信訳で1962年に出版された
海上先生からそういう話をきいてね、世の中にこんな人がおるんやなと。
彼がやっている、日本人として世界に出せる作家を育てるという考え方自体はね、すごいなと。
日本の歴史伝統にのっとったというか。
西洋美術史の流れの積み重ねではないのよ。
日本の中の積み重ねの中でそれをやろうとした。
この生き方にぼくはびっくりして。
それから日本というものを考え出した。
鉄鋼業は、近代、現代産業やから、西洋的で、仕組みがぜんぶ向こうの論理なんよ。
だから、そのなかで作品を制作していくことは、その頃のぼくにとっては難しかった。
どうしていいかわからんし。
まして、ものすごい工場やプラント、大型機械など最先端の鉄鋼技術を使わせてもらって「何をつくるか」。
巨大な鉄鋼文明の仕組みに対して、日本人作家としての、自分の、言いたいメッセージが出せないというジレンマがあった。
ぼくにとって日本的なものとはなにか(と考えたとき)
ぼくはゆがんで、たわむというか、物理や化学の論理で成立するような構成的なものじゃなくて、より有機的で不安定で偶発性っていうもの。
そのなかに日本的なものを感じ取ったわけ。
だけど、そういうものをどういうふうにっていうときに、なかなか自分ではできなかった。
そういうときに海上先生と会って。
それで自分の彫刻をつくる、彫刻探しがはじまるわけよ。
彼がやっている、日本人として世界に出せる作家を育てるという考え方自体はね、すごいなと。
日本の歴史伝統にのっとったというか。
西洋美術史の流れの積み重ねではないのよ。
日本の中の積み重ねの中でそれをやろうとした。
この生き方にぼくはびっくりして。
それから日本というものを考え出した。
鉄鋼業は、近代、現代産業やから、西洋的で、仕組みがぜんぶ向こうの論理なんよ。
だから、そのなかで作品を制作していくことは、その頃のぼくにとっては難しかった。
どうしていいかわからんし。
まして、ものすごい工場やプラント、大型機械など最先端の鉄鋼技術を使わせてもらって「何をつくるか」。
巨大な鉄鋼文明の仕組みに対して、日本人作家としての、自分の、言いたいメッセージが出せないというジレンマがあった。
ぼくにとって日本的なものとはなにか(と考えたとき)
ぼくはゆがんで、たわむというか、物理や化学の論理で成立するような構成的なものじゃなくて、より有機的で不安定で偶発性っていうもの。
そのなかに日本的なものを感じ取ったわけ。
だけど、そういうものをどういうふうにっていうときに、なかなか自分ではできなかった。
そういうときに海上先生と会って。
それで自分の彫刻をつくる、彫刻探しがはじまるわけよ。

母里さんの作品。保管庫のなかに飾られている。
──母里さんの話はまだまだ続きます。
次回は、北九州~田川での活動について配信予定です。
次回は、北九州~田川での活動について配信予定です。

